コルナゴ部長こと中尾公一さんレポート🚴💨「消えた集落、日ノ尾村を訪ねる」

コルナゴ部長こと中尾公一さんよりレポートをいただきました。
今回のレポートのテーマは、“日ノ尾峠”。
今の事態が落ち着きましたら、ぜひ走りに来てくださいね。

阿蘇サイクリングの好きなコースに九州自然歩道の日ノ尾峠がある。阿蘇山の根子岳と高岳の間を通る峠道で、宮地方面から上った別荘地から眺める高岳は素晴らしいが、それから先は木々に覆われて阿蘇らしい景色を見るところは少ない。しかし、車もバイクも、人もまず通らないひっそりとしたところで、聞こえるのはタイヤで踏む落ち葉や枝の音、あとは風の音と鳥の声だけの無心になれる別世界のようなところが何度も走りたくなる理由だ。

頂上も全く視野が無く、唯一頂上を示す環境省・熊本県の案内看板でわかるくらいだ。そこにはこう書かれている。「この道は阿蘇と南郷(南阿蘇)を結ぶ道として古来から重要な役割を果たし、南郷方面の人々は阿蘇神社詣や宮地の郡役所へとこの峠を往来していました。」

初めて走った時この看板の「古来から重要な役割」に興味が湧き、日ノ尾峠のことをネットで調べると、大正8年(1919)に書かれた登山家北尾鐐之介の「根子岳 ― 雨の火の尾峠」を見つけた。そこには峠の真下に17戸ほどの火尾村(日ノ尾村)があり、噴火のヨナ(降灰)にも負けず火山灰の土を耕し、少しばかりのトウモロコシやサツマイモなどを作っている寒村であったと当時の様子が書かれていた。
北尾が峠の茶店で主人と話しをすると、祖先は阿蘇家の藩士として有名な家柄であったと聞き、阿蘇氏が領地に入り込む人々を調べるために、この峠を関所のようにして藩士の一部を住まわせたのだと知った。その武士の末裔が祖先から伝承した故郷を守り、火口の麓の厳しい環境の中で今も暮らしてることが、この人達の土地に対する執着の寂しい影を感じたと、昼飯の膳に乗った痩せたジャガイモの一片に喩えられていた。

100年前の日ノ尾村の情景が思い浮かぶようになった。しかし、ネットで調べても、阿蘇の人に聞いても情報はなく、日ノ尾峠方面から行こうと思っても道を見つけることはできず、深い山に入り込む探索スタイルを考えていた。

ある日、何気にグーグルマップを見ていたら、この峠道と265号の間に「天満宮」と「天狗神社」を見つけた。これは北尾が大正8年に行った日ノ尾村の痕跡に違いないと図書館通いをしていたら、昨年6月に阿蘇市波野に在住の岩下平助氏編著「根子岳山麓に生きて」に出会った。そこには日ノ尾峠と265号の間の谷間に広がる「阿蘇郡坂梨郷新波野村」の地図と、それを拡大した「日ノ尾」と書かれた「村落内詳細地図」があった。新波野村の地図にはグーグルマップと同じところに字名の堀山地区に11戸の民家と「天神社」と「天狗堂」があり、詳細地図にはそれぞれ世帯主と系図が書かれここを日ノ尾村と呼ばれていたことを知った。

日ノ尾峠と265号の間の谷間に広がる集落のひとつが日ノ尾村であり、江戸時代から人が住んでいた記録も残され、北尾が茶店の主から聞いたことを証明するものだった。しかし、昭和45年頃を最後に無人となり、現在は神社とお堂、それと墓地を残す岩下氏のタイトル通りの消えた集落になっていた。

日ノ尾村の情報はある程度わかった。でも肝心なところは謎だらけで行けば何か当時を偲ぶようなものがないかと期待に胸膨らむばかりだった。5月中旬、道の駅阿蘇の下城さんから、付近の地理に詳しい町古閑牧野で仕事をしているショウ君が、何と、案内してくれるというので急きょ阿蘇満喫ライドのガイドのメンバーと訪ねてみた。

「根子岳山麓に生きて」より「阿蘇郡坂梨郷新波野村」の地図
一の宮町の郷土史家 宮川三友氏が明治32年(1899)生まれの那須アキエさんの記憶を基礎として昭和60年に書かれたものだ。図書館にも日ノ尾村のことが書かれた書物は見つけられずこの本が唯一の情報源となった。この本には日ノ尾周辺の詳細な聞き取りや、現地調査された貴重な記録も紹介されている。

村落内詳細地図には日ノ尾村住民の系図のほかに、堀川天神と入口の銀杏樹・天狗堂と奥にお龍堂・水車・基地・分教場・鍛冶屋の位置が示されていた。

また大正8年、北尾は日ノ尾峠の頂上からの景色を書いている。「そこには高岳、根子岳を見るには一番よい処でした。北から登って、ここで始めて私は阿蘇の南麓を見ました。南郷谷の白水、色見、草部の一帯。遠くの高森の甍(いらか:屋根瓦)が振り落とされたように煙雨の中に見えます。」当時は今のように木々に覆われておらず、見上げると根子岳と高岳、そして南阿蘇が一望できる見晴らしの良い峠だったことがうかがえる。

ショウ君は午前中が仕事で日ノ尾村探索は午後からなので午前中は神秘的なスポットを訪ねてみた。道の駅阿蘇に集合し、まずは地元の人には猫神社と言われている藤谷神社へ。駐車場に行くと近くに民家のない山の奥なのに、どこからともなく猫がワサワサと集まってくる。祀られているのは大山祇神で山の神、天狗さんとも呼ばれご利益に勝負事もあり、宝くじの祈願で来られる方も多いらしい。この日は猫に餌をやる人のあとだったのか5、6匹が藪の中から出てきただけだったがスタート早々に天狗さんに手を合わせた。

続いて猫神社の先にある「護王さんの杉」へ
樹齢1000年と言われるウラスギの仲間で横に枝を伸ばして上に成長し独特の樹形となる。主幹は落雷で失っているものの、どっしりした根元に寄り添うと気が休まるような気持ちになってくる。もう少し周りを整備されたら今からの時代、訪ねる人が増えるかも知れない。
たもとには火山活動の平穏を祈願する火伏地蔵と護王権限が祀られている。

続いて仙酔峡に

ミヤマキリシマの旬は過ぎていたが、確かに「仙人が酔うほど美しい峡谷」だった。
朝方雨が降ったので霞ないくっきりした景色を眺めることができた。高岳の北麓にあり標高は900mだからミルクロードに上る程度の坂が続き、最後200mくらいは勾配がきつくなり滑り止めのための道路の凹凸が抵抗になって更に厳しく感じる。

仙酔峡の不思議なのは阿蘇山の麓になぜ白い巨大な仏舎利塔があるのか、常々謎だったがこの機会にネットで調べると、明治18年生まれの阿蘇市一の宮出身の日本山妙法寺という宗教団体の創始者であり、僧侶である藤井日達という人が平和祈願として昭和42年に建立したという。仏舎利塔の左手には日本山妙法寺の本堂(道場)が建ち、以前は修行のためか人が住んでいたと一緒に行った地元の人が言っていた。それにしても眺めは素晴らしい。

ダウンヒルも最高に気持ちがいい

次は乙川水源の棚田へ
今年の熊本から新嘗祭に献上されるのはこの阿蘇水掛の棚田米だ。北外輪山の中腹の斜面にあり中々の坂を上ると立派な柵や鳥居があり厳かな宮中行事の雰囲気が漂っていた。

遮るものがなければ間違いなく絶景スポットになるだろうが、ここまで道が狭い上り坂で自転車ならほとんど影響はないが車やバイクが押し寄せると地元の人には迷惑だろう。

道の駅阿蘇に一旦帰って昼食
選んだのは、玄米と糀と野菜にこだわる「あそら食堂&カフェ」の「とりからサンド」。ボリュームがありながらもヘルシーなコッペパンのサンド、穏やかな美味しさだった。朝7時オープンのあそら食堂は6月1日から営業再開される。早朝サイドの朝ごはんのポイントとしてサイクリストを応援してくれる店の復活だ。

午後からショウ君の案内でいよいよ日ノ尾村へ行く。
一部押し区間があるかも知れないがロードでも行けるとのことなので道の駅阿蘇から自走で行った。どこから上るのか、日ノ尾峠からの入口はどこなのか、不明なままスタートする。逆にそれが面白くて、いよいよミステリーライドになってきた。

何となく緊張のあまり無口のまま走っていたら日ノ尾峠の入口を過ぎて265号に出た。箱石峠に行く道だ。そして根子岳登山の釣井尾根ルートの入口から山に入るそうだ。
藪漕ぎさえ覚悟していたのに「ええっ!ここ?」というくらい普通、でも案内看板に「天狗神社」とある。根子岳には「釣井尾根」や「天狗の峰」という有名なところがあって、登山するだけの道かと思っていたら10年は265号を走っているのに、見逃していた。

車1台がやっと通れる道はサイクリングには軽快で、ウグイスの鳴き合いを聞きながら進んでいると、地図と同じところの③に1軒だけ民家があって、付近の山を管理されている釣井さんが住んでおられたとショウ君から教えてもらった。そういえば日ノ尾村の地図にも釣井家はあり、戦時中に沖縄から学童疎開で波野村に60名の小学5、6年生を受け入れ釣井家には2名の生徒を預かっていた。毎週月曜日になると、日ノ尾村から馬に乗って波野の小学校まで通っていたので他の生徒からとても羨ましがられていたという。坂梨小学校の昭和44年卒業の釣井姓の生徒さんが、2年生か3年生の頃日ノ尾から転居したのが日ノ尾からの通学生の最後だったと担任の先生の聞き取りに書かれていた。

セメント道を上っていると鳥居が見え天狗神社に着いた。地図に書いてある天狗堂だ。
木製の鳥居は傾きロープで倒れないようにしてありやっと姿を保っていた。鳥居を見ると平成20年奉納とあり、かすかに「釣井」の文字も見えるので現在も釣井さんが管理されているのかも知れない。

鳥居の先を上っていくとプレハブ小屋があり多分これがお龍堂だと思う。扉は少し開いていたが中は見なかった。
三友氏資料
「山上近くの傾斜面に1.5間×1.5間位のお龍堂があって1畝(せ)位の平地があり、北が入り口、室内西側に多くの旗や幟(のぼり)が収納されていて、その幾つかはごく最近のもので、無人ながらも参拝者がある事が知られている」(1.5間=2.73m 1畝=10m×10m)

奥に進むと小さな祠があった。
中を見ると・・・

これが天狗様
三友氏資料
「奉納と看られる60㎝内外の各種の小鳥居が6基、市販の上等天狗面1面。向かって右側に高さ約40㎝幅14㎝の石佛有り。天狗殿(でん)と言う。根子岳・高岳の神々・天狗様を遥拝(ようはい)する所だ。また中岳の鎮火をお願いするところでもあると言う。(釣井一二談)」
千羽鶴が奉納され小鳥居も数は確認しなかったがいくつか納められていた。

鳥肌が立つほどの素晴らしい体験だった。

鳥居のところに降りるとすぐ横に墓が並んでいた。地図にある通り那須幸助家の墓地だ。
墓石には地図に書かれた姓があった。伐採された原野の先には町古閑牧野のアンテナ塔が見えた。堀山天神を探そうと地図を見ると入口に銀杏樹、大きなイチョウが目印だとショウ君に言うと、見渡して「あの木だ」と指差し、その方向に行った。

見つけた。銀杏樹の先に階段があり堀山天神があった。
三友氏資料
「天神様 字名をとって「堀山天神社」。祭神は菅原道真公。流れ作り瓦葺き。建物の要所々々に紅梁(こうりょう)・木鼻(きばな)・蟇股(かえるまた)等(柱を支える木)見事な彫刻がある。昭和初年再建。道路面から高さ約6m幅1mの15段上。山の西南斜面に建立されて西面。道路に沿って高さ3、4m直径25㎝位の木製の鳥居があり、脇に3.5m径の大銀杏樹が立っている。終戦後、坂梨の馬場八幡宮に合祀の話もあったが独立社としてきた。社掌は、昭和60年現在阿蘇神社宮司阿蘇惟友長男惟之氏。」

現在は瓦葺きでもなく鳥居もなかった。三友氏の取材からすでに35年経ち、その間には水害や台風、それに熊本地震など自然災害が度重なったものの、天狗堂とともにここに存在しているだけ奇跡のように思えた。

このあと村内にあった水車を探そうと目印の大杉を見つけたがそれらしきものはなかった。

日の尾堀川の柄杓井川(一の宮町史 自然と文化阿蘇選書8阿蘇山と水より)
「根子岳の西側の山麓は、現在では杉や檜の山林に覆われているが、昭和三十年代までは約三十戸の日の尾集落があった。集落の中心に堀山天神が、杉とイチョウの木立に囲まれて祀られていた。この西側約百メートルのところにある大杉の根元から水が湧いていた。畳二枚ほどの広さの池にいつも水を湛え、集落の貴重な生活用水となっていた。地元の人はそこを「柄杓井川」(ひしゃくいがわ)と呼び、水を柄杓で汲み上げるとその分を補うようにこんこんと水が湧き出す不思議な泉であったという。
昭和三十年代に集落の人々が坂梨や宮地に移転してからは、利用する人がなくなり、自然に埋没してしまった。平成十年の六月、昔ここに住んでいた那須兼春氏(大正十五年生まれ)と湧水地点を訪れたが、地下の水脈が閉塞したのか、梅雨期というのに湧き水の兆候は全く見られなかった。」

日ノ尾峠の道に出て一番の景勝地で高岳を眺めた。振り返ると根子岳がいつになく悠然と、そして神秘的に見えた。山の誕生が根子岳だけが古く、風雨により浸食されたギザギザの山容と、密生した原生林が他の五岳と全く違い、このことがぎりぎり人が住めるということなのかも知れない。

昭和27年まで日の尾在住の佐藤トシ子さん(大正生まれ)談
1、日の尾村には多いときは37戸の世帯があり、昔は鍛冶屋、寺子屋もあり染め物用の大きな桶、集落共同で使用する葬祭用の漆塗りの本膳80碗等がたくさんあった。(藍染は古くから奨励されタデの栽培が各地で行われ、時代はわからないが染物屋が(日の尾周辺60から100軒近い住居があったと宮川氏)3軒くらいあったとのことでその後蚕も各戸で飼われていたとのことである。)※タデを原料とする藍染は、防虫やへび除け、それに火に強く衣類や足袋に使われ日の尾村の貴重な産業だったのではないかと思う。

2、天狗堂のことをガラン坊(堂)、オコモリ堂とも言い日の尾峠への道路を西往還と呼んでいた。

3、波野、野尻へ通じる高千穂往還沿いの三本松付近のことを高城と呼び、道端馬旅人の憩いの場所でもあった。(野尻往還)

4、祖先に槍の名人がいて九尺四面の室で九尺柄の槍を使い参勤交代にも同道していた。

5、この地帯はほとんどが原野と畑で一帯は部落の所有で畜産が盛んであった。

6、公式地名としての日の尾はないが、町の記憶では日の尾の誰々と言い部落名として使われており堀山と呼ぶ人は少ない。日の尾と言えばだれでも知っており万人共通の集落名である。

中村武春氏談
「大正8年登山家の北尾鐐之助が書いた「日本の名山、阿蘇山」の中に日の尾峠の模様が描かれその中に、阿蘇氏がこの山越えで領内に入り込む諸人改のため、特に関所のようにしてここに藩士の一部を住まわせた、とありこの茶店を経営していたのが中村百太郎夫婦。お山番とも言われ狩猟の術に優れ一日に十数羽のウサギを仕留めていたとも言い、また阿蘇神社での流鏑馬の名手で馬も飼っていた。」
中村氏の話によれば峠の茶店は百太郎夫婦で経営、昭和の初め子弟教育のため裁判町に降り、当時としては唯一の交通手段であった客馬車を運行、併せて茶店を営み、かたや流鏑馬には大々的に出場していたとのことである。

島田キミエさんの話を参考に三友氏は、「日の尾村の成り立ちは、阿蘇家は藩の方針もあったのであろう、根子岳北鹿地区の開発に力を入れていたようだった。家中の者をこの地に移住させていた。中村権蔵氏の祖父利左衛門は、阿蘇家に仕官したこの家の初代であり(1771年)、高森の郷士山村晋三郎身内であったが「開所立山目付」を命じられてこの地に住んだのであろう。「阿蘇家から人が来て、囲ヶ宇土の墓を掃除しておられた」とある。これは江戸時代の話と思うが捨てがたい話と思っている。阿蘇家もその子を住まわせたのかその墓掃除に人を遣わしていたのであろう。」

箱石峠の上にある町古閑牧野展望所から撮った写真を探してみると確かに天狗堂が写っていた。この付近が日ノ尾村だった。

今回、「根子岳山麓に生きて」に出会い、ある程度日ノ尾村のことを知ることができたことは少し謎が解けてとても満足している。加えて著者の岩下平助氏には掲載を快く承諾され何度も訪問させていただき感謝のしようがない。岩下氏によるとまだ消えた集落は付近に幾つかあるとのことなのでまたご教示願い探索したいと思っている。

最後に日ノ尾の地名について岩下氏に尋ねたところ、こう言われた。「日本民族語彙辞典で日と尾から、夕日が長い斜面を通して、何時までも見える所、と考えられるのではないだろうか」250年前と同じ景色を見ながら、まさにその通りの村の名だと、私にも思えた。

 

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