コルナゴ部長こと中尾公一さんレポート「東海大学エコツーリズム研究室取材」です

コルナゴ部長こと中尾公一さんからレポート「東海大学エコツーリズム研究室取材」が届きました。
102年前と同じ風景の中へ、e-BIKEで進んでいきます。
こんな場所知らなかった~Σ(・ω・ノ)ノ!
阿蘇にこんなところがあるなんて!!と、ワクワクするレポートです。ご覧ください。

東海大学経営学部ビジネス学科教授の小林寛子先生が主宰される、エコツーリズム研究室の学生さんが、研究室のテーマである「地域の宝を守り活かすための持続可能な観光のしくみ」という研究のなかで、卒業論文にエコツーリズムに関わる人材養成について取り組まれており、阿蘇観光ガイドのコンテンツのひとつとしてサイクルガイドの取材を受けました。取材内容は、昨年6月に、道の駅阿蘇のホームページや、私のブログで紹介した高岳と根子岳の鞍部にある日ノ尾峠付近に昭和30年代くらいまであった日ノ尾村をe-BIKEで訪ねるツアーを実体験することと、ライド終了後はガイドに関するインタビューということでした。

参加されたのは、小林先生と研究室の学生さん2人。
まずはサドルの高さを合わせて、ブレーキ、ギアの変速、センターディスプレイの使い方など乗車前の確認をしてもらいます。

走行練習はe-BIKEの力強いアシストを確認してもらい、ブレーキ・ギアチェンジ・ハンドサインの実践です。この日は草原ではなく公道を走るため、確実にできるようになるまで練習してもらいました。練習後はコースの案内、立ち寄りポイント、見てほしい景色を説明して車の少ない旧国道57号線で宮地駅を目指しました。

学生さんがリクエストされた「消えた集落、日ノ尾村を訪ねるツアー」は、登山家の北尾鐐之助が大正8年(1919)8月10日に、宮地駅から日ノ尾峠に行った様子が書かれている「日本山岳巡礼」の中の「根子岳 雨の火ノ尾峠」(当時は「火」と「日」が混同)を再現するちょっとした探検ツアーになります。

102年前と同じ景色や村の痕跡として今も残る天狗堂(天狗神社)などを見ることによって、当時の暮らしを思い浮かべてほしいと、阿蘇市波野在住の郷土史家 岩下平助氏編著「根子岳山麓に生きて」に書かれている日ノ尾村の資料を事前に渡して北尾鐐之助の足跡をたどりました。

そこで今回はみなさんにも参考になればと「根子岳 雨の火ノ尾峠」の一部を抜粋しました。分かりにくいところは「注・」にて補足しましたので少し長いですが是非ご一読ください。

北尾鐐之助が歩いたルートは、宮地駅から南郷谷を結ぶ古道の、当時は西往還と呼ばれていた九州自然歩道で行く日ノ尾峠超えです。場所は根子岳と高岳の鞍部を通り頂上が日ノ尾峠でその麓に日ノ尾村がありました。この写真は国道265号(当時は途中まであった東往還)箱石峠の上にある町古閑牧野展望所から撮ったもので、眼下には戦後植林された杉林になっていますが当時は広大な原野や畑だったようです。
では「根子岳山麓に生きて」に掲載してある故宮川三友氏の聞き取り取材によって書かれた日ノ尾峠付近の地図を見ながらどうぞ。

『日本山岳巡礼』より『根子岳 雨の火ノ尾峠』

「宮地からの道(注・現在の九州自然歩道)は、鉄道線路(注・現在のJR豊肥線)を踏み切ると、古神(注:宮地駅付近の字名)にある阿蘇家の墓所(注・現存します)。その傍らから路は左に入って、火山原を流れる雨水のため、自然に薬研(注・V字型)のように崩(く)え込んだ黒土の上を歩きますが、両側は高い土手を作って、頭の上は冠(かぶ)さるほど一杯の萱(注:カヤ・草原の牧草)でした。
 ちょいちょい流れを飛びます。銀鼠色をした新しい 『ヨナ』(注:火山灰)が、一すじ帯をなしていたりからからの噴出岩が、黒土の中から頭を出していたりしました。
 こんな道を暫く行くと、朝早くから峠の七八合目までも登って、午前中はそこで萱切りをした農家の馬が、背(せな)一杯に萱を積んで、数限りなく続いて下りて来るのに出逢いました。
『よか草、たんと伐(き)れました』と、案内の爺さんが挨拶すると、『はい、はい』と馬を追いながら下って行きます。そういう馬連は、大概みな可愛い仔馬を連れていました。仔馬は私達の異様な姿を見ると、やさしい目をきょときょとさせては立止りました。親馬と一緒に道草(みちぐさ)でも食っていると『こうら、とっとと行かぬかや、ぐずぐずしくさると、馬車馬に売り飛ばして仕舞うぞ』と女馬子から叱られ『エッ、そればかりは』と云ったように、首(こうべ)を振上げ、お尻を振りながら、急ぎ足に下りて行きます。
 馬の群(むれ)は幾十頭、幾百頭となく続きました。それがみな掩いかぶさるほどの萱を背負っています。あれ丈けの萱を切っても、山は見渡す限りなお蒼青(まつさお)でした。阪梨村(注・現在は一の宮町坂梨)の方へ行く道に出逢う辺りへ来ると、大分登って、目路も開闊になりました。この辺りは平常(へいぜい)あんな放牧の馬が沢山いるのだそうですが、一卜月ほど前から山が荒れて、大変な『ヨナ』のために、ああして萱を切って帰り、それを洗って飼うのだそうです。
 この辺から、山向うの南郷谷一帯。阿蘇の山麓には至る処放牧の馬が見られました。『女を可愛がると馬が瘠せる』。この辺にはそういう諺があるといいます。馬を飼うのは女の仕事で、このあたりの女は大概二頭か三頭位い、みな可愛いいこの生物(いきもの)を育てていました。

 空が少し晴れて、当面にこの朝初めての根子岳と顔を合せました。相変らず奇怪な線を描いて、私の神経をおののかせずには置きません。これから登ろうとする火尾峠(注・日ノ尾峠)が、この板子岳と高岳との鞍部を作り、ずっと低く連亘して、霧の閏から見えて来ます。それも見えたかと思うと、すぐにまた冷たい霧雨です。
(中略)
火尾峠のすぐ真下、噴火峰の北側に巣を作ったその日尾村。そこは僅か十七八戸の寒村で、火山灰の土を耕して、少しばかりの唐黍(注・トウモロコシ)や、甘藷(注・サツマイモ)などを作っています。家も人も大噴火山の『ヨナ』を冠り、毒煙に包まれながら、そういう療地にも人が住んでいました。阿蘇氏が、この山越えに領地へ入り込む諸人改めのため、特に関所のようにして、ここへ藩士の一部を住わせたという、その武士(さむらい)の子等が、先祖から伝承した故郷に対する遣瀬(やるせ)ない執着!。それが今、この小さい火の山中の村を形作っているのです。
 峠の下の茶店に休んで、その茶店の主人の祖先というのは、阿蘇家の藩士として、有名な家柄であるというような詰も聞きました。昼飯の膳に載った、瘠せた馬鈴薯(注・ジャガイモ)の一片にもこの人達の土地に対する執着の寂しい影がありました。
 宮地からこの峠の茶屋まで、ゆるゆる写真などを撮りながら登って約二時間、ここからは雲さえなければ、板子岳はよく見えました。 私は、この茶店で峠の上から高岳へは勿論、昔から山麓では人跡未到、神秘の山とされている根子岳へも、相当な勇気さえあれば、行けぬことはないということを聞いて、頻りに食指が動きました。
 板子岳は高岳に比較すると、百二十米(メートル)ばかり低いのですが、その鋸歯の如く乱立した頂上は、現今盛んに噴煙を揚げている火孔のある処とは、三百米(メートル)ばかり高くなっていました。そして、この火尾峠の頂上は、火孔よりまた三百米(メートル)ばかり低いところを、ずっと北から南へ越すのです。 板子岳へ登るには、旧八月(注・8月下旬から10月上旬)になって草の短かくなる時を志すか、秋、草が枯れると、薪を採るため、麓から火をつけて草を焼く(注・野焼き)が、この時に登るがよい。そして、粉岩の崩落するところを避けて、多く草場を横に揚みながら、岩崩れにかからないように道を取るので、少し馴れた者でないと困難だが、決して登れぬ山ではないというのでした。併し、今のところ、日尾村で頼む以外、適当な案内者を求める訳には行きません。 こんな話を聞いている中に、また雨です。いつまで待っても晴れぬため、今度の旅は、志して来た高岳登りも断念せねばなりませんでした。
 宮地から連れて登った案内の爺さんは、随分この辺の山を歩いたと云いながら、峠から高岳へ行く道は全く知らぬと云っていました。・・・・・道というものはありませんが---それほど阿蘇の山々は、世間から超越しています。私は毎年信飛の山々に行って、今度、ここへ来ると、人々の山に関する冷淡さが、全く憎らしくなる程でした。 日の尾の茶店に彼是一時間。天気は到底駄目と走(きま)ったので、高岳を断念し、そこから峠の上に辿り、南麓の高森へ下ることにしました。」

宮地駅からスタートして豊肥線の踏切を渡り、阿蘇家の墓所の横を通って、すぐに左に入ると写真の暗くなったところからV字型の底が道になります。102年前とまったく同じ風景に小林先生も学生さんもちょっと興奮気味でした。

上り坂でもグイグイ進むe-BIKEのパワーと爽快感にみなさん驚かれていました。私と下城さんはロードバイクでしたので吐息も荒く大汗かきました。
ここから日ノ尾村に続く道に入ります。左側が下記の地図によると中村百太郎さんが営む2軒目の峠に近い茶屋があったようです。

「根子岳山麓に生きて」に掲載してある日ノ尾村の詳細地図です。左の日ノ尾峠・西往還と記してあるところから村内に入ります。⑦を右に曲がり、③には建て替えられた無人の家屋が1軒だけあり、右の上り坂を行くと墓地の横に天狗堂の鳥居があります。

鳥居から先は急な上りになります。

「根子岳山麓に生きて」より以下に三友氏の取材。
「山上近くの傾斜面に1.5間×1.5間位のお籠堂があって1畝(せ)位の平地があり、北が入り口、室内西側に多くの旗や幟(のぼり)が収納されていて、その幾つかはごく最近のもので、無人ながらも参拝者がある事が知られている」(1.5間=2.73m 1畝=10m×10m)坂を上るとプレハブ小屋があり地図では天狗堂と逆になっていますが、旗や幟がありますのでこれがお籠堂のようです。記帳の案内がありましたので私と学生さんは記帳しました。

そしてその先に小さな祠があり中には・・・

「根子岳山麓に生きて」より以下に三友氏の取材。
「奉納と看られる60cm内外の各種の小鳥居が6基、市販の上等天狗面1面、向かって右側に高さ約40cm幅14cmの石佛有り。天狗殿(でん)と言う。根子岳・高岳の神々・天狗様を遥拝(ようはい)する所だ。また中岳の鎮火をお願いするところでもあると言う(釣井一二談)」

今回のツアーのゴールである消えた集落日ノ尾村を物語る天狗殿です。根子岳の形をした台に鎮座されています。

次にもうひとつ村跡に現存する銀杏樹(イチョウの木)が目印の堀山天神に行きます。

地図の通り銀杏樹があり階段を上ると堀山天神があります。

「根子岳山麓に生きて」より以下に三友氏の取材。
「天神様 字名をとって「堀山天神社」。祭神は菅原道真公。流れ作り瓦葺き。建物の要所々々に虹梁(こうりょう)・木鼻(きばな)・蟇股(かえるまた)等(柱を支える木)見事な彫刻がある。昭和初年再建。道路面から高さ約6m幅1mの15段上。山の西南斜面に建立されて西面。道路に沿って高さ3、4m直径25cm位の木製の鳥居があり、脇に3.5m径の大銀杏樹が立っている。終戦後、坂梨の馬場八幡宮に合祀の話もあったが独立社としてきた。社掌は、昭和60年現在阿蘇神社宮司阿蘇惟友長男惟之氏。」

現在は瓦葺きではなく鳥居もありません。三友氏の取材からすでに36年経ち、その間には水害や台風、それに熊本地震など自然災害が度重なったものの、天狗堂とともにここに存在しているだけ奇跡のように思えました。根子岳が目の前に迫る天神さまの前でおにぎりのお昼にしました。先生も学生さんも野鳥の鳴き声を聴きながら「美味しい!」と何度も言われていました。

堀山天神の近くの大杉の根元に湧水地があり水車もあったと地図に記載されていますが、それについて『一の宮町史 自然と文化阿蘇選書8 阿蘇山と水』にこのように書かれています。

「根子岳の西側の山麓は、現在では杉や檜の山林に覆われているが、昭和三十年代までは約三十戸の日の尾集落があった。集落の中心に堀山天神が、杉とイチョウの木立に囲まれて祀られていた。この西側約百メートルのところにある大杉の根元から水が湧いていた。畳二枚ほどの広さの池にいつも水を湛え、集落の貴重な生活用水となっていた。地元の人はそこを「柄杓井川」(ひしゃくいがわ)と呼び、水を柄杓で汲み上げるとその分を補うようにこんこんと水が湧き出す不思議な泉であったという。
昭和三十年代に集落の人々が坂梨や宮地に移転してからは、利用する人がなくなり、自然に埋没してしまった。平成十年の六月、昔ここに住んでいた那須兼春氏(大正十五年生まれ)とこの湧水地点を訪れたが、地下の水脈が閉塞したのか、梅雨期というのに湧き水の兆候はまったく見られなかった。」

今も残る日ノ尾村の痕跡は、天狗堂、堀山天神、大イチョウ、村内の道です。村からは下りになり東往還、現在の265号に出ると102年前の8月10日に北尾鐐之助がたどった体験のゴールとなります。

せっかくですからもう少し「根子岳山麓に生きて」より日ノ尾村のことを紹介しましょう。

「昭和27年まで日の尾在住の佐藤トシ子さん(大正生まれ)より取材。
1、日の尾村には多いときは37戸の世帯があり、昔は鍛冶屋、寺子屋もあり染め物用の大きな桶、集落共同で使用する葬祭用の漆塗りの本膳80碗等がたくさんあった。(藍染は古くから奨励されタデの栽培が各地で行われ、時代はわからないが染物屋が(日の尾周辺には60から100軒近い住居があったと宮川氏)3軒くらいあったとのことでその後蚕も各戸で飼われていたとのことである。)※タデを原料とする藍染は、防虫やへび除け、それに火に強く衣類や足袋に使われ日ノ村の貴重な産業だったのではないかと思う。
2、天狗堂のことをガラン坊(堂)、オコモリ堂とも言い日の尾峠への道路を西往還と呼んでいた。
3、波野、野尻へ通じる高千穂往還沿いの三本松付近のことを高城と呼び、道端馬旅人の憩いの場所でもあった。(野尻往還)
4、先祖に槍の名人がいて九尺四面の室で九尺柄の槍を使い参勤交代にも同道していた。
5、この地帯はほとんどが原野と畑で一帯は部落の所有で畜産が盛んであった。
6、公式地名としての日の尾はないが、町の記録では日の尾の誰々と言い部落名として使われており堀山と呼ぶ人は少ない。日の尾と言えば誰でも知っており万人共通の集落名である。」

このように「根子岳山麓に生きて」には、時代をさかのぼり波野周辺の地域特有の暮らし方を垣間見ることができます。また、1944年に学童集団疎開として沖縄首里第二小学校から学童62名と教師2名が波野村に疎開され遊雀小学校で2年間過ごされていました。その後1973年と95年に遊雀を訪ねて交流が始まり、日ノ尾村に住んでいた2名が村を再訪されました。その時は獣道もないほど荒れていたようですが、神社や井戸を探されこの地での思い出を「根子岳山麓に生きて」に紹介されています。この本は宮地と内牧にある阿蘇市図書館にありますので興味のある方は是非ご覧ください。

以上が阿蘇の自然と景観、それに歴史を体験できるツアーの模様でした。

東海大学エコツーリズム研究室のみなさんの目的はツアーではなく、この後1時間以上のガイドに関するインタビューでしたが、研究室の考えとして、過疎化による地域の衰退が深刻化している日本の地域においては、地域の宝そのものが観光資源となり、それを保全しながら活用することで地域振興をはかっていくことに繋がるツアー内容ではないかと「消えた集落、日ノ尾村を訪ねるツアー」を紹介しました。
ガイドに関することは詳細をお話しましたが、結論は阿蘇観光に携わるみなさんとの連携はまだ成されていないということと、やや壁を感じることです。そしてガイドを育成するために必要なことは家族が養えるだけの収入と安定した休日です。これは北海道・ニセコ地区を拠点に主に海外富裕層向けのスキーやサイクリングツアーのガイド事業を展開するアーチ社代表の高橋幸博氏のサイクルガイドセミナーから学んだことです。高橋氏はコロナ禍の中、インバウンドが消えた現在は、地域プロデューサー・スポーツツーリズムプロデューサー、そして国土交通省の自転車活用推進功績者として全国で活躍されています。

高橋さんのニセコで培った持論である「地域に根ざしたガイドによる質の高いサービスが富裕層のリピーターを作る」これを念頭にガイド育成のお手伝いと、阿蘇地域だけではなくニーズがあれば九州内のサイクリストと連携したガイドサービスを目指したいと考えています。

 

 

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