コルナゴ部長こと中尾公一さんから最新レポートが届きました✨
南小国で幕末に一夜にして消えた隠れキリシタンの集落「臼内切(うすねぎり)」の虐殺伝承をたどる、全長42kmの歴史探訪サイクリング🚲💨
公的記録のない悲劇を証明する貴重な手がかりとなった、地元寺院の過去帳や生き残りの親子の墓、そして「千人塚」の跡地を自転車で巡りました。
普段の穏やかな阿蘇・小国郷の田園風景の裏に眠る地域の記憶に耳を傾け、歴史の真実としめやかな悲劇の足跡を五感で追体験したライドとなりました😊
ぜひご覧ください🎵
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私たちがサイクリングでよく走る南小国に、江戸末期まで「臼内切(うすねぎり)」と呼ばれる小さな集落がありました。そこには12家族が暮らしていたと伝えられていますが、隠れキリシタンであったことを理由に一夜にして命を奪われ、村は姿を消したといいます。村人たちが断首されたと伝わる丘には、今も家族ごとに葬られた12基の塚が残り土地の人は「千人塚」と呼び、南小国町教育委員会による案内板が立っています。

臼内切のことを知ったのは、小国町在住で道の駅阿蘇の下城さんから、子どものころ親に「隠れキリシタンが処刑された臼内切の近づかないように」と言われていた、という話を聞いたことがきっかけでした。
以前、私は根子岳と高岳の間を通り、阿蘇谷と南郷谷を結ぶ古道である日ノ尾峠について調べていました。峠の麓には、江戸時代から「日ノ尾村」と呼ばれる集落があり、車は通らないものの自転車で走れる道が残り、天満宮、神社、そして当時を伝える資料が残っています。
また、町古閑牧野のショウ君に高森の廃村跡を案内してもらったこともあり、私は次第に「消えた村」そのものに興味を持つようになりました。そうして現地を訪ねるサイクリングを開催していたことから、下城さんが臼内切の話を教えてくれたのです。

そうして調べていくうちに、河津武俊氏の著書『肥後細川藩幕末秘聞』に出会いました。中学時代まで小国で暮らした河津氏は、臼内切に関する書物や新聞記事、証言、そして寺の過去帳を丹念にたどり、3年以上にわたって臼内切のキリシタン処刑伝説を追い続けました。その記述からは、真実に迫ろうとする著者の強い熱意が伝わってきます。ここからは、河津氏が紹介している資料をたどりながら、臼内切の存在と伝承を見ていきます。

昭和35年刊行の禿迷盧(かむろめいろ)著『小国郷史』には、小国における切支丹信仰の痕跡について、次のように記されています。
『小国での切支丹信徒の証拠は少ないが、周囲の地理的影響から一時は信徒が出来たであろうことが想像される。此の後捜すとすれば周辺地区か、山中の小集落でつぶれた村等に何か証拠が残っていないか。昭和廿八(二十八)年の大洪水で流れ出た切支丹墓を、黒淵の杉平の森原民恵氏が発見保管している。横八寸高さ一尺五寸深さ五分幅一寸を上面に刻み蓋でかくれるようにし、前面はたて棒のみ、下石の見えぬ処に名等刻んだものだろう。南小国小田から吉原へ越す山の平地の南側の窪に「臼根切」という他とは絶対に婚姻せず、江戸末期邪教信仰が発覚して、一夜之を取囲み全員殺したと言い伝えられ骨を埋めた塚がある。』
ここでは、臼内切が「臼根切」と表記され、周囲と婚姻を結ばない小集落として語られていたこと、切支丹墓の存在、そして江戸末期に邪教信仰が発覚し、一夜にして全員が殺されたという伝承が記されています。

昭和61年刊行の佐藤弘著『小国郷の史蹟・文化財』にも、臼内切の集落跡や千人塚について、次のように記されています。
「黒原から小田集落に通ずる林道の途中に臼内切の集落がある。明治14年刊行の『肥後国誌補遺』によると、小国郷馬場手永のうち田野原村百三十三石余その中の小集落名に「臼内切」の名がある。現在は一軒もなく、屋敷跡地は畑となり杉山となって完全な廃村となっている。この臼内切の集落は、隠れ切支丹の疑いで、幕末の頃集落を包囲されて、全員捕えられ、集落近くの見晴らしのいい丘で、家族毎に処刑されたと云う、近くの小田集落古老の話が伝えられている。この処刑された丘を土地の人は千人塚と呼んでいる。
南面へゆるやかに傾斜したこの丘に上より下へ、十二の塚が残っている。集落跡は土台石等片づけられているが、茶碗等の食器類の破片が所々散在している。家々や鎮守の社等焼き払われた様子で、長い間野ざらしになっていた。黒焦げの仏像を吉原神社の籠り堂に吉原の人が拾ってかえり安置してある。」
この記述からは、臼内切が『肥後国誌補遺』にも見える実在の小集落であり、廃村となった跡に塚や生活の痕跡が残っていたことが分かります。なお、表記については『小国郷史』では「臼根切」とされていますが、『肥後国誌補遺』には「臼内切」と記されています。現存する地名や後に確認された過去帳の記載も踏まえると、本稿では「臼内切」と表記するのが妥当だと考えます。

次に、証言として残された記録を見ていきます。熊本県天草出身の小説家・詩人である石牟田道子さんは、『西南役伝説』の中で、昭和48年に古老の長谷部保正氏から聞いた臼内切の虐殺伝承を、土地の方言を生かして紹介しています。
長谷部氏は明治31年に小国町で生まれ、大正9年に上田の江古尾にある長谷部家の養子となりました。農業を営むかたわら、昔話の伝承者として郷土史の研究にも志を寄せ、禿迷盧氏の『小国郷史』編纂にあたっては、資料の収集や提供にも協力しています。なお、『小国郷の史蹟・文化財』に登場する「近くの小田集落古老」も、長谷部保正氏を指していると考えられます。
以下、『西南役伝説』より抜粋した長谷部保正氏の話です。
前略
「嘉永6年(1853)ごろから、村々の記憶は、近代の始まりを伝えはじめるのです。それは異様でおそろしいお触れの形でやってきました。いまだにこの界隈の年寄りたちが、陽のかげってゆく方向にある山あいを見やっては首を振り、声を落として語る記憶です。
長谷部保正さんは、じつに優しい声で、かそけきそこらの魂たちと語るように、ゆっくりゆっくり、こんな風に語りました。
そんとき、小国じゅうにお触れが出て、切支丹ば信仰すれば、こういう目に逢うぞちゅうわけでしたろう。うすねぎりの者どもを、処刑するけん見にゆくようにちゅうて、お触れが出たそうです。わたしの母がよう話しよりました。その『うすねぎり』の生き残りの人は、泰次郎さんというお人で、そんとき四つじゃったそうです。」
中略
じいさんたちに連れられて見に行った人たちもおって、見に行った人たちは、幾日も、食いもんの咽喉通らんじゃったげなです。
うすねぎりの山ん上、松の木の下に竹矢来を結うてあって、検死の役人が向う鉢巻して、袴をあげち腰かけとって、あん頃は非人ちいいよったが、今は非人もあらんごつなって、そういういい方はのうなったが、斬るのは非人で、それが検死の役人の方にお辞儀してから刀を抜いて、三べん振って三べんめに、首落としましたそうです。そうすると、胴がふっと半分膝立てて 立ちよったち、子供だったばってん覚えとると云いよったです。そうすると、胴がふっと半分膝立てて立ちよったち、子供だったばってん覚えとるち云いよったです。
立ち上がるとば後から穴の中に蹴り落としましたそうですもんな。小さい子供たちまで後手に縛って斬ったそうです。そうすると切口から血柱の空に向けち、さあーっとふきあがって。
あすこあたりゆけば、今でも外道のひっつくちゅうて、そるから先、うすねぎりの付近にゃ、滅多にだあれも寄りつきまっせんです。今でも、あそこのそばの吉羽あたりじゃ、陽のさし入ると、そばの田んぼからでも、早々に引き上げますげな。
中略
何家族殺されましたやら、ひとつの塚にひと家族、斬られる前に、腰に縄つけられて曳かれて行って、自分たちの入る穴ば掘らせられたちゅうて、吉原あたりの年寄りたちがいいよりましたです。
塚の数が十二ありますき、うすねぎりの集落ぜんぶで十二家族だったとでしょうな。女、子供みんな殺されて、一家族が四、五人から五、六人として、五、六十人もおりましたろうか。かねてあんまり、近所の村とつきあいのなか村でしたき、はっきりしたことはわかりませんとです。塚の数だけが、大きのや小さいのやとりまぜて、大きい塚は、大人数、小さい塚は少人数だったとでしょう。
中略
やしき跡や、田んぼ後は、もう杉山になってしもうて、杉も一年々々のびるばかりですき、元の集落の様子を知った者でなきゃ見分けることは出来まっせんです。塚のある山だけは、まだだあれも、手をつけきらんな、そんままになっとるき、なるべく早う掘ってあげて、弔ろうてやろうごとありますが、なんしろ、うすねぎりの話ば知っちょるもんもだんだん死んでしもうて、熊本の歴史の先生方に話しに行たても、記録のなかけん嘘じゃろなんのちゅうて、頓着もなかですもんな。
どういう人の、どういう暮らしだったじゃろ、やしきの跡には、よか梅の木や、椿や、お茶の木が植わっとって、それからあのつつじの花木の、つつじは、ここらでは墓花ですき、そんなつつじを丁寧に植えてありよりました。きっとそこらが墓だったじゃろと思いよります。
中略
おいねさんという人がここの近くの江古尾という集落の娘で、その嫁入り先に、どういう縁か、泰次郎さんが養子に入っちょって、おいねさんが泰次郎さんを連れて里帰りしとったときに、その処刑があったわけでした。それで二人が処刑をまぬがれて、泰次郎さんはそんとき四つになっちょって、よう覚えちょるといいよったそうです。
ほとぼりのさめて、二ヵ月ばかりしてからだったろうと云いおったそうですが、おっかさんに連れられて、そろっとうすねぎりに帰ったそうです。もちろん村には誰ぁれも居らんな、おっかさんが、あっち立ち、こっち立ちして塚に詣って、どこの家の塚かわからん塚のひとつずつにそこらの花摘んであげて詣って、わあわあ泣きなはるき、自分もわけわからんなり、悲しゅうして、いっしょになって泣いたのばよう覚えちょるち、泰次郎さんが酒呑めば泣いて、話よったそうです。
明治になって信教の自由が許されて、今はなんの宗教信じても、斬らるることもなか世の中になったき、よかばってん、自分の親たちゃ、明治まで隠れおおせずに斬られて死んで、悪いことして斬られたのじゃなか、切支丹信じとったばかりに、明治になる前に斬られて死んでしもうて、自分はうすねぎりのたったひとりの生残りちゅうて、酒呑めば、半分しか無か左足抱え抱えして、泣きよったそうです。その脱疽が元で、明治11年に、33歳で、泰次郎さんは亡くなってしもうて泰次郎さんと仲のよかった治八という人が、私が17のとき、江古尾の集落に養子に来て、それで同志になって、くり返しきかせられよったです。誰にでも話すばってん、又かちゅう顔して、みんな屁も嗅ずませんち、ぐずりよりましたですがな。
母も話し好きで、いっぺん話してきかせるとわたしもよう覚えよりましたき、その話もようしよりました。」
この証言から、臼内切の処刑をめぐる伝承には、生き残った「おいね」と「泰次郎」という親子の存在が語られていたことが分かります。おいねは処刑の日、泰次郎を連れて江古尾の実家に里帰りしていたため難を逃れ、泰次郎は当時四歳だったとされています。
臼内切の事件については、公文書には一切記録が残っておらず、歴史家や研究者の多くは否定的でした。しかし河津氏は、この親子の存在こそが伝承の真偽に迫る手がかりになると考えるようになりました。

資料提供 小国町 河津友子様
昭和49年には、西日本新聞に、東洋英和女学院短大の学長で元九州大学教授の石井次郎氏による臼内切の記事が掲載されました。さらに、熊本日日新聞には当時の南小国町教育長であった高橋国男氏の記事が、西日本新聞にはペンネームと思われる呑人氏の記事も残されています。ここでは、その一例として石井氏の記事を紹介します。
「小国の近くには、静かで涼しい山の温泉がいくつもある。もし満願寺や田の原を訪ねるなら、『千人塚』のことを聞くことがある。これが幕末、殉教したキリシタンを葬ったところである。しかし、わずか百年余りの間に、その出来事の顛末はほとんど忘れられて、『人がよけいに殺されたげな』といった程度になっているのは驚くほかない。
中略
嘉永六年(この年、黒船が日本を揺るがせ、翌年、日米和親条約が締結された)千人塚の丘の裏手にかくれた臼根切の集落は、肥後藩が派遣した武装の兵員の急襲を受けた。すでに北ノ里の総庄屋の探索方が内偵を終え、兵士等は前夜からひそかに集落を包囲し、夜明けとともに十数戸の家々に同時に踏み込んだ。予想に反して、抵抗は何一つ行われず、たちまち家々から家族の全員が幼児をも含めて、じゅずつなぎにされて連れ出された。家財は戸外にほうり出して武器を探索したが、これは何一つ発見できなかった。
その日、急使が吉原・小田など近くの村々に飛んで、『けしからぬ者どもの処刑あり、刑場に来て、これを見よ』という布告を伝えた。現在十二の塚が残る丘が、その刑場であって、ここに竹矢来をくみ、しきたり通りの処刑が行われた。指揮官は床几に座して、家族ごとに一人びとりその名を読み上げ、断首とともに用意された穴に蹴込まれた。こうして、一家族が一つの塚に埋葬された。
中略
しかし、実は、惨殺されたのは、集落の全員ではなかった。生き残りがいた。ただ一人の婦人(厳密には二名)が、この難を免れたのであった。その女性は、産山村の田尻から臼根切に嫁した者で、当日、四歳の娘『いね』を連れて里帰りしていた。」
石井氏は記事の末尾に、「小国町上田の郷土史家、長谷部保正氏の十数年に及ぶ研究から多くの資料を得た」と記しています。つまりこの記事も、長谷部保正氏の調査や聞き取りを大きな根拠として書かれたものだと考えられます。
なお、この記事では生き残った人物について「四歳の娘『いね』」とされていますが、前述の『西南役伝説』では「おいね」と「泰次郎」の親子、もう一つの資料では「イ子」として語られており、伝承の中で人物関係に揺れがあることもうかがえます。
臼内切村の虐殺の前に、「切支丹を信仰すれば処刑するので見に来るようにと小国地域に『お触れ・布告』が出た」とありますが、これは公的な通達であり、処刑を実行したのは他藩とは考えらず肥後藩が派遣した武装の兵員なのかも知れません。藩としては公にしたくない事件であるため公文書は存在しませんが、多くの方が処刑の現場を目撃していることが伝聞となり今に残っていることでしょう。

こうして、臼内切をめぐるいくつもの資料や証言に触れることができました。いつも穏やかな田園風景の中を案内している私にとって、この小国郷にかつてこのような悲劇があったという事実は、にわかには信じがたいものでした。
しかし、日本各地に残る伝説や伝聞もまた、地域の記憶を伝える大切な歴史の宝です。だからこそ、河津氏が残した足跡をたどり、切支丹弾圧によって消えたと伝わる臼内切村を訪ねるサイクリングを開催することにしました。

サイクリングは小国町役場を集合場所とし、満願寺の千人塚、黒焦げの仏像が安置されている吉原神社の籠り堂、泰次郎とおいね(イ子)の痕跡を求めて訪ねる江古尾集落、そして臼内切村の檀那寺(請寺)であった田の原温泉の明蓮寺と、北里の玉岑寺を巡る内容としました。
ただ、私は小国郷についてはまだ土地勘が十分ではありません。そこで、ASOおぐに観光協会で小国町地域おこし協力隊として活動されている上野幸紀さんに、訪ねたい場所を線でつないでもらい、全長42kmのコースを作ってもらいました。さらに、臼内切村に関する資料についても、地元の方々へ提供を呼びかけてもらいました。

この日ばかりは、道端に石碑を見つけるたびに立ち止まり、何かの情報になるかと刻まれた文字を確かめずにはいられませんでした。
また、小国郷には瀬の本を越えて日田へ向かう日田往還が通り、参勤交代の際には熊本藩の飛び地であった大分の港町・鶴崎へ向かう道筋にもなっていました。昔から温泉地が多く、旅人の宿泊地として利用されてきたことを知ったのも、今回の大きな収穫でした。

『肥後細川藩幕末秘聞』の面白さは、臼内切の伝承を追ううちに、話が小国郡代の荻昌國、さらに横井小楠へとつながっていくところにもあります。河津氏は、現在の小国町役場近くにあった郡代屋敷で自死した荻昌國が、管轄地で起きたと伝わる臼内切の虐殺事件と関係しているのではないかと考え、取材を進めていきました。その過程で、荻昌國の同志であり、幕末から明治初期にかけて活躍した熊本藩士の儒学者・横井小楠へと話が広がっていきます。横井小楠といえば、吉田松陰や坂本龍馬も自ら訪ね、勝海舟や西郷隆盛の関係者たちも訪問した人物、歴史好きの方には別枠としての魅力もこの本にはあります。
写真は、かつて郡代屋敷があった場所の道向かいに立つ善正寺です。荻昌國がよく碁を打ちに通った寺とされ、中央に写る現住職の禿浩道氏の祖父の弟が、『小国郷史』を完成させた禿迷盧氏にあたります。また、同書の編纂に資料を提供した長谷部保正氏も、善正寺によく訪れていたことが住職の記憶に残っているといいます。とても穏やかな住職さんで、是非再訪して小国地方の歴史について話をお聞きしたいと思いました。

善正寺の前の上野医院付近が小国郡代屋敷跡で塀がその名残をとどめているようです。ここからの40号線までの谷筋の道は、初めてでしたがひっそり静かで江戸時代と変わっていないのでないかと感じるサイクリングになりました。

満願寺温泉の川湯の近くに、キリシタン墓とされる石があったことがこの本に紹介されています。河津氏は臼内切を訪ねた帰り、小国郷史談会の会長の案内でその場所へ向かいました。車を停め、杉木立の急な坂を登ると、暗い崖下に2つの石が重ねて置かれており、その中央には細い「十」の字がはっきりと刻まれていたそうです。この石は、昭和46年の大雨の際に山腹から落ちてきたものを、通行人が偶然発見したものでした。
河津氏はさらに、『由布院のキリシタン史』の著者で、すでに故人となっていた湯布院の阿武豊氏の自宅も訪ねています。阿武氏によれば、フランシスコ・ザビエルの布教以降、当時大分を支配していた大友宗麟の許可のもと、各地に教会や聖堂が建てました。大友氏や由布院の豪族たちも洗礼を受け、信者は1500名を超えたといわれています。
しかし、秀吉の天下統一によって由布院地方のキリシタン時代は終わりを迎え、さらに徳川幕府による徹底したキリシタン弾圧が続きました。それでも人々は隠れキリシタンとして信仰を持ち続け、その証を墓石にひそかに刻み込んでいったといいます。
阿武氏によると、キリシタン墓には、墓石のどこかにキリストの十字架を表す「十」の字が刻み込まれていることがあるそうです。人目につかない場所に小さく印されたものもあれば、まれに墓の表面にはっきりと刻まれたものもあります。しかし、墓石の十字が見つかればキリシタンとみなされ、命に関わる危険がありました。そのため、やがて十字を刻むことを避け、仏教の立墓と一線を画すように、墓石を寝かせる「伏墓」という形で信仰の証を守り続けたということでした。
こうしたことを踏まえると、『小国郷史』に記されている昭和28年の大洪水で流れ出た黒淵のキリシタン墓や、満願寺温泉近くで見つかったキリシタン墓とされる石の存在は、小国郷にもキリシタン信仰の痕跡があった可能性を示しているのではないでしょうか。

40号から317号へ入ると、しばらく上りが続き、なかなか堪えます。吉原ごんべえ村キャンプ場の手前には南小国町教育委員会の案内板が立っており、そこから集落の間を抜ける細い道を上っていきます。

峠を越えて少し下ると、視界が明るく開け、ちょうど目線の高さに千人塚の白い案内板が見えてきました。

こちらは以前試走に行った際に撮ったものですが、草が伸び切っていないので、白い看板がはっきり見えます。ここから谷へ下った先の杉山が臼内切村の跡とされ、近くには墓地や段々畑もあったといわれています。臼の内側を切り取ったような地形は、まさに臼内切(うすねぎり)という名の通りに見えました。

谷を下ってまっすぐ行くと、左に曲がり急な斜面になりますので、自転車はここに置いて歩いて登ります。

200mくらいの上りになるのでシューズがSPD-SLの場合クリートが必須でしょう。

途中、迷いそうなところには矢印の案内板があります。

千人塚に着きました。周囲は杉山ですが、塚のある丘だけは杉が植えられておらず、藪にならないよう、今も地域の人が行う野焼きによって守られています。河津氏の本には「野焼き直後に行くと塚がはっきり見える」とありますが、今回は野焼きから2~3ヵ月が経っていたため、草に覆われて塚の形を確認することはできませんでした。

かつては360度を見渡すことができ、涌蓋山も望めたそうですが、杉の植林に囲まれ、その眺望は閉ざされていました。河津氏は土地の人の案内でこの場所を何度も訪ね、取材を重ねています。『肥後細川藩幕末秘聞』の初版は1993年ですが、その10年ほど前までは、道から20mほど入ったところに、100年以上前の臼内切村の共同墓地があったそうです。そこには大小の丸石の墓石が数えきれないほど並び、その中の一つには「寛政弐年十月十日 俗名亀吉」と刻まれていたといいます。しかし今では、その墓地も亀吉の墓石も残っていないそうです。
今まで紹介してきた伝承によれば、臼内切の村人たちは、子どもを含めて縄で縛られ、切支丹であることを理由にこの丘で全員が首を斬られ、家族ごとに塚へ葬られたといいます。嘉永6年(1853)、今から173年前に起きたと伝わる悲劇です。処刑を行ったのは肥後細川藩の藩士であったとされていますので公的な記録は残っていません。そのため、長く検証されることのないまま、地元の人々の記憶の中からも次第に忘れ去られていったようです。

資料提供 小国町 河津友子様
見取図の上部が、小国町教育委員会の案内板が立っていた場所です。塚の中心は「く」の字を描くように並んでおり、無造作に掘られたものというより、一定の意図をもって配置されたようにも見えます。もしそうであれば、この処刑は偶発的なものではなく、測量や配置を行える組織的な一団によって行われた可能性も考えられます。肥後細川藩の関与を伝える長谷部保正氏の証言が、より現実味を帯びて感じられました。
小国郷史談会によって臼内切の千人塚の見取図が作成されたのは、平成6年(1994)のことです。『肥後細川藩幕末秘聞』の初版がその前年の1993年であることを考えると、この本の出版をきっかけに、地元でも臼内切への関心が高まっていったのではないかと思います。

千人塚を降りて谷沿いを見渡すと、今も南北に連なる田んぼが広がっています。かつてこの一帯には、臼内切村の人々が200年にわたって開拓したとされる約3町歩の田畑と住居がありました。その田畑は明治年間から吉原の農民によって耕作され、現在に至っているといいます。住居は丘の陰に隠れるように、ひとかたまりになって建っていたようで、その一角には透明な清水が湧く泉もあったそうです。山腹を削って造られた段々畑の跡も、当時の姿をしのばせるほど見事に残っていたと伝えられています。

『肥後細川藩幕末秘聞』には、吉原集落のSさんへの聞き取りも紹介されています。Sさんによれば、西日本新聞に臼内切の記事を寄せた石井次郎氏は、十数年にわたり、年に2、3回ほど探索のために家を訪ね、長く話し込んでいたそうです。石井氏は、臼内切の悲劇が事実であるなら何とか世に知らせたいと繰り返し語り、Sさんもその秘めた情熱に応えるように、できる限り協力を続けていたといいます。
Sさん自身も、戦後の食糧難の中で、親と一緒に臼内切の畑を耕してきた一人でした。Sさんが実際に耕作を始めたのは戦後からでしたが、先祖は何代も前からこの地で作物を作り続けていたといいます。臼内切の惨殺伝承は子どものころから聞かされていたものの、怖いからといって耕作をやめられる時代ではありませんでした。恐れを抱えながらも、唐芋やトウモロコシ、陸稲、大根など、作れるものは何でも工夫して作っていたそうです。
今でこそ段々畑は杉山に変わっていますが、昭和40年代までは、江戸末期に臼内切の住民が暮らしていたころとほとんど同じような農業が続けられていました。土地を耕すと、茶碗のかけらや石臼、屋敷の土台石、焼けた鴨居、錆びた包丁などが次々に出てきたそうです。昭和ひとけた生まれのSさんは、曾祖父から臼内切の惨殺伝承を聞いていたのか、幼いころからその話をよく知っていたといいます。
また、Sさんは、臼内切の村人について、どこかよそから来た人々で、体格も言葉も違い、年貢も納めず、踏絵にも参加せず、200年間にわたって独立した治外法権のような状態にあったとは考えにくい、と話していたそうです。周囲の村々とは半里、つまり2キロほどしか離れておらず、まったく交流がなかったとは思えません。とくに吉原集落とは、惨殺があったとされる10年ほど後には臼内切の跡地で田畑を耕し始めていることから、何らかの親しい関係や深い交流があったのではないか、と考えていたようです。

臼内切村から1kmほどのところには、かつて小田温泉の旅館「夢の湯」がありました。河津氏の臼内切の取材において、昼食や集合場所にされていたところです。現在、建物は取り壊されて跡地となり、その一角に民宿の建物が残っていますが、営業はされていないようです。少し先では、身内の方が大きな温泉旅館を経営されているようです。
「夢の湯」のオーナーは、小田で農業を営んでいたN家でした。長谷部保正氏の10歳年上の姉がこの家に嫁いでいたため、保正さんは子どものころからよく小田を訪れていたそうです。当時の小田には、臼内切の惨殺を実際に見た人たちがまだ生きていた可能性があり、保正さんが臼内切の話を初めて耳にしたのも、小田であったのではないかと推測されています。
小田の姉の家から惨殺の丘を望むたび、保正さんはいつも涙ぐんでいたといいます。河津氏は、その衝撃こそが、保正氏が生涯をかけて臼内切の伝承を語り継ぐ原点になったのではないかと見ています。

臼内切から2キロほど離れた明蓮寺で臼内切村の「過去帳」が見つかりました。明蓮寺は、映画『男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく』のロケ地にもなった田の原温泉「大朗館」の隣にありました。
過去帳(かこちょう)とは、仏教で用いられる帳面で、亡くなった人の戒名(法名)、生前の名前、死亡日、年齢などが記されます。家庭で祀るものもありますが、寺院では檀家の累代の記録として管理されることが多く、命日や法要の際に故人を確認し供養するための重要な資料です。

隠れキリシタンとは、江戸時代に表向きは仏教徒として寺請制度に従いながら、密かにキリスト教の信仰を守り続けた人々のことです。臼内切の村人たちも、集落から2キロほど離れた明蓮寺を檀那寺(請寺)としていたようです。

河津氏の取材によると、住職は、寛文7年(1667)に明蓮寺が存在していたことを示す古文書があり、江戸時代の早い時期に建立されたのではないかと話されています。そうであれば、明蓮寺は350年以上の歴史を持つ古刹ということになります。この日は当然ながら住職に直接お願いする勇気もなく、サイクリングで立ち寄っただけの私が、地元でもない立場で過去帳を見せてほしいと頼むことはできません。そのため、ここでは『肥後細川藩幕末秘聞』に記された内容をもとに紹介します。
桐箱に保存された過去帳は、一冊につき40~50枚ほどあり、約500名の名前が記されていたそうです。河津氏は4冊の過去帳を年代順に並べ、臼内切村の死者名を正確に写し取ったといいます。
たとえば過去帳には、「戒名 順正 臼内切村 俗名 利助 五十八歳」と一行だけ記されており、それ以外のことは一切書かれていなかったとのことでした。
河津氏が臼内切村民の記録を年代順に整理すると、確認できた人数は全部で56名でした。最も古い記録は貞享4年(1687)に始まり、明治3年(1870)で終わっています。つまり、183年間に、明蓮寺の門徒として記録された臼内切村の死者は56名だったことになります。一方で、嘉永6年(1853)に虐殺されたとされる多数の死者については、過去帳に一切記載がありません。さらに、その年を境に臼内切村として登場する人数は極端に減り、明治3年以後はまったく見られなくなります。このことから、臼内切村はそのころまでに完全に廃村となっていったように思われます。

普段とは雰囲気のまったく違う小国郷ライドになりましたが、参加者の皆さんはそれぞれの思いで興味を示されて少し安心しました。昼食は小国に戻り、地元客でにぎわう源来軒で焼きそばやチャンポンをいただいて腹ごしらえ。そこから、木魂館の裏手にある玉岑寺(ぎょくしんじ)へ向かいました。

左の建物が玉岑寺です。石井次郎氏が書かれた新聞記事に、「彼等は、いつ、どこから来たのだろう。それに臼根切という奇妙な名前である。この名称が現れる一番古い記録は、北ノ里の玉岑寺の過去帳である。ここに『宝暦葵酉(ほうれききゆう)年七月三日、茂平、うすまいきり(臼根切)』と記されている。宝暦葵酉年といえば宝暦三年(1753)のことである。明蓮寺の他に臼内切村の住民の檀那寺として玉岑寺が少なくとも存在したことを証明している」

玉岑寺は、江戸時代に徳川幕府の命を受けて建立されたとされ、この地方では唯一、葵の御紋を許された寺社だと紹介されていました。河津氏の取材によれば、玉岑寺と明蓮寺、そして江古尾にある寺が、臼内切村の住民の檀那寺であったことが分かっています。

玉岑寺のすぐ近くからは、旧国鉄宮原線の北里橋梁をよい角度で眺めることができました。ここは、4月に開催した「旧国鉄宮原線の廃線跡に残る橋梁遺構を巡るグラベルライド」でも訪ねた場所です。現在は遊歩道として整備されており、橋長60mのコンクリート造5連アーチ橋が静かに残っています。重い話が続いた後だったこともあり、この風景はよい気分転換になりました。

長谷部保正さんが養子に入ったのは、上田の江古尾集落でした。ところが、その家のすぐ上の段にある長谷部家には、臼内切の生き残りとされる「泰次郎」が養子に入っており、その娘が「おいね」あるいは「イ子」と呼ばれていたことが分かりました。「泰次郎」が養子に入った家のすぐ下に、後に保正さんも養子に入ったという偶然は、奇跡に近いものに思えます。この機縁が、保正さんを何度も臼内切の丘へ向かわせ、その熱意と誠意が石井次郎氏や作家の石牟礼道子さんにも伝わっていったのでしょう。
河津氏の取材の中で最も大きな成果は、公的な記録が残っていないこの事件において、明蓮寺の過去帳から「臼内切村」の存在が確認されたこと、そして臼内切村の処刑で生き残ったとされる「泰次郎」の墓を見つけ出したことでした。
きっかけは、河津氏と一緒に行動していた方が、保正さんと会った際に「泰次郎とおいね・イ子の墓は、自分の家の墓地と同じところにある」と聞いたことを思い出したことでした。そこから懸命に探した結果、「泰次郎」の墓を探し当て、近くで「おいね・イ子」の墓も見つけることができたのです。
保正さんが語ってきた臼内切の虐殺伝承では、生き残った親子として、4歳の「泰次郎」とその母の存在が語られていました。母は「泰次郎」を連れて実家の産山村田尻に帰っていたため難を逃れ、その後、母子は実家で過ごしたのち、母は再婚したといいます。「泰次郎」はやがて畳職人となり、江古尾の長谷部家、つまり「おいね・イ子」の家に養子に入っていました。
「泰次郎」の墓には、正面に「釈得了 長谷部泰次郎 行年三十一歳」、裏面に「明治十三年庚申九月十五日」と記されていました。一方、「イ子」の墓は「泰次郎」のものよりはるかに大きく、何段にも重なった立派な墓だったそうです。正面には「釈尼妙春 長谷部イ子 四十七歳」、裏面には「明治三十六年二月一日 同豊之立」と刻まれていました。これにより、伝承に出てくる「おいね」の名は、墓碑では「イ子」と記されていたことが分かります。
この墓碑の記録から、「泰次郎」は問題の嘉永6年(1853)には4歳であり、「イ子」はまだ生まれておらず、その4年後に生まれたことになります。つまり、伝承で語られていた「おいね」と「泰次郎」の関係には揺れがあり、墓碑の記録によって、二人は親子ではなく、後に養子縁組によって結ばれた関係だったことが見えてきます。
「泰次郎」と「イ子」の墓を発見出来ましたから、死亡年月日がわかり、小国町役場で「イ子」の除籍簿が見つかりました。しかし、「泰次郎」の除籍簿は見つからず、墓の大きさからしても「泰次郎」のものは小さく、婿入りしたものの、今でいう入籍はまだしていなかったのでしょう。
石井次郎氏の西日本新聞の記事では、「泰次郎」と「イ子」の間に三人の子供があったと書かれていますが、除籍簿には、父は空欄で母 イ子 「届出漏二テ 私生 長男 豊」、「届出漏二テ 私生 長女 ミツエ」、「届出漏二テ 私生 二男 司」と三人が確かにいます。「イ子」の墓に「同豊之立」とありますので、墓を建てたのは長男の「豊」だったのでしょう。

最後に、昭和49年9月の西日本新聞に石井次郎氏の記事が掲載され、石牟礼道子さんの著作でも臼内切が取り上げられて以降、臼内切はキリシタン悲劇の地として注目を集めるようになりました。地元の小国郷、とりわけ臼内切が所在する南小国町でも、町長や町議らが動き出し、調査に乗り出したといいます。中央の著名な歴史学者を招き、塚の発掘を行う一歩手前まで進んでいたようです。
しかし、観光にもつながるかに見えたその関心の高まりは、昭和54年に語り部であった長谷部保正氏が亡くなったことで、次第に頓挫し、先送りされていったようです。河津氏と行動を共にしていた方が、関心が最も高まっていたころに長谷部家を訪ねたとき、保正さんはすでに病の床にありました。それでも保正さんは、何としても臼内切のことを解明し、虐殺されたと伝わる隠れキリシタンの人々を供養してほしいと、涙を流して頼んだそうです。
今回のライドを終えて、改めて感じたのは、日本各地に残る伝説や伝聞もまた、地域の記憶を伝える大切な歴史の宝だということです。たとえ公的な記録に残らなかった出来事であっても、人々が語り継いできた声に耳を傾けることには意味があります。このような悲劇を忘れずに語り継いでいくことが、平和な世の中をつくるために、私たちができることの一つなのだと思います。
このレポートを書き終えた後、臼内切で起きたと伝わる出来事を、文字だけでなく映像としても想像してみたいと思い、遠藤周作の小説『沈黙』をマーティン・スコセッシ監督が映画化した『沈黙-サイレンス-』を見ました。江戸初期のキリシタン弾圧を背景にしたこの映画の主題そのものについてはここでは触れませんが、縄で縛られ、処刑へと連れて行かれる人々の姿は、臼内切に残る語り部の伝承と重なって見えました。なかでも、静けさの中に響くヒグラシの鳴き声は、深く悲しい記憶を抱えた臼内切村の風景を、私の中に強く呼び起こしました。
