コルナゴ部長こと中尾公一さんから最新レポートが届きました✨
熊本地震から10年、阿蘇市と南阿蘇に点在する震災遺構や新しく誕生したミュージアムを巡る11名のライド。
姿を消しつつある生々しい断層跡や崩落した阿蘇大橋の歴史を振り返り、過酷な被災生活と奇跡的な復興の歩みを体感しました。
インフラが完全にストップした極限状態で「確実な移動手段」となった自転車の重要性を学び、未来の備えへと繋ぐ有意義な一日となったようです。
ぜひご覧ください🎵
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5月9日の阿蘇満喫ライドは、「熊本地震から10年、阿蘇震災の爪痕を巡るライド」として、熊本4名、福岡4名、宮崎1名、長崎1名、そして東京から単身赴任の菊陽町在住の方が1名参加された11名の皆さんを私と下城さんで案内しました。
当時、私は内牧温泉の旅館で働いており、テレビや新聞では報道されなかつた阿蘇の被災の様子や、そこから少しずつ復興へ向かっていく地域の姿を、自分のブログ「コルナゴ部長の阿蘇天空の旅」で発信していました。
教訓として最も伝えたかったのは、震災では交通網が寸断され、ガソリンも電源もストップします。そこで役にたったのが自転車でした。長距離を走れて食べ物や水の配給、それに情報収集に大いに助かりました。ただし、砂利・泥・瓦礫が散乱したり、ひびや段差ができた道路や、近道の田んぼ道を走るには、マウンテンバイクやグラベルバイクがより緊急時の足としていいのではないかということでした。
震災から3ヵ月後、旅館の営業を再開すると同時に、「被災の実態やそこから得た教訓を伝え、これからの災害への備えにつなげてもらえたら」という思いから、被災地を今度は自転車で巡る「ジオライド」を始めました。

営業再開前からブログを見てくださっていた方や、2015年に公開された『劇場版 弱虫ペダル』のファンの方にも多く宿に来ていただき、ジオライドを案内してきました。
今回は、その原点ともいえるコースをたどりながら、阿蘇市と南阿蘇に残る震災遺構を、私自身の体験も交えて案内しました。

最初に向かったのは、阿蘇駅方面と内牧温泉を結ぶ国道212号の直線道路です。
2016年4月16日の本震のあと、阿蘇市では電気・水道・ガス・通信が止まり、暮らしがほとんど機能しなくなるという現実を体験しました。
コンビニやスーパー、銀行、郵便局などすべて営業を停止し、まだ寒さの残る4月の阿蘇でエアコンや暖房も使えませんでした。スマホは充電できず情報は入りにくく、電子決済も使えず、ATMも停止してお金を引き出せません。さらに信号も止まり、街の中はとても危険な状況でした。

2016年4月19日撮影
そんな先の見えない停電生活のなか、4月19日に国道212号沿いの歩道へ関西電力の電源車がずらりと並び、内牧に電気が届けられました。宮地方面でも、阿蘇自動車学校のコースに中部電力の電源車が入り、送電が行われました。電源車のメンテナンスのため1日1時間ほど停電することはありましたが、それでも少しずつ震災前の暮らしを取り戻していくことができました。

2016年4月19日撮影
災害支援は24時間体制だったため、電源車には宿泊機能を備えた車両がセットで付き、トイレや食事もその車両でまかなわれていたようです。燃料は自衛隊のタンクローリーが給油していました。

2016年4月撮影
また、宿泊機能を持つ車両だけでなく、175号と8m農免道路の交差点にいた中部電力の電源車のそばにはテントも張られていました。こうした多くの方々の支えがあって、震災後の暮らしは少しずつ元に戻っていったのだと思います。

2016年4月18日撮影
2ヵ所目に訪れたのは、内牧のチュンチュンラーメンとホテル角萬の間に現れた断層です。
周囲の家々は傾き、ホテル角萬の6階建ての建物も斜めになっていました。当時のジオライドでは、旅館からも近く、震災の脅威を間近で感じられる場所のひとつでした。
今回のライドで久しぶりに訪れてみると、そこは何事もなかったかのようにきれいに整えられていて、思わず写真を撮るのを忘れてしまうほどでした。

2016年4月26日撮影
次に向かったのは、4月18日におにぎりを販売されていた「スーパーみやはら」や、北海道の自衛隊の方々が臨時浴場を設けていた阿蘇中学校の前を通り、三久保の交差点から175号に入った先です。そこをしばらく進むと、胸の高さほどもありそうな大きな段差ができていました。
下城さんから聞いた話では、段差の下側に自宅が残った方は、玄関を開けると目の前が土の壁のような状態になっていたそうです。出入りには梯子をかけ、車が段差から落ちないよう、懐中電灯を手に朝まで見守っておられたといいます。
今回のライドでは、「たしかこのあたりだった」と記憶をたどりながら、その場所を訪ねました。すると、そこも今では何事もなかったかのように平らな道になっていました。
当時は写真のように勾配をつけて片側交互通行ができるようにしてありましたが、最徐行しないと車の下を擦ってしまうほどで、通行には十分な注意が必要でした。

2016年5月1日撮影
この大きな断層は、地震のすさまじさを物語る場所であり、内牧の断層と同じように、ジオライドでもよく案内していた場所です。そんな生々しい被災の風景のなかでも、段差の近くの家には節句を祝うこいのぼりが泳ぎ、農家では被災の片付けと並行して田植えの準備が進められていました。子どもの成長も、梅雨の訪れも、待ってはくれません。震災のただなかにあっても、阿蘇にはいつもの季節と暮らしが確かに流れていました。

2016年4月17日撮影
4月16日の本震では、私が住む菊池市でも震度6強の揺れがあり、その夜は車中泊をしました。朝になると、自宅の割れたガラスの片づけをし、大きな被害を受けた大津町の知人を我が家に迎える準備も始めました。
17日、内牧へ向かうため朝8時15分に家を出ると、自衛隊のバイク隊や車両を先頭に、松原市、交野市、寝屋川市など関西方面の救急車が何台も列をなして走っており、阿蘇へ向かっているのだとすぐに分かりました。このときは、国道57号もミルクロードも、菊池渓谷経由の国道384号や県道45号も通行止めになっていたため、私が向かう県道23号(菊池赤水線)が貴重なルートになっていました。
渋滞する二重の峠から8m農免道路に入ると、道路には陥没や大きな段差がいくつもあり、それを避けながら何とか通れるような状況でした。すでに自衛隊の車両が入り、道路の復旧作業も始まっていました。今回のライドでは、175号の断層を見たあとに、この8m農免道路も走りましたが、かつての風景を思わせるものはほとんど残っていませんでした。

4月26日撮影
阿蘇市が停電になった大きな原因のひとつは、鉄塔が次々と倒れてしまったことでした。そのため、8m農免道路沿いでは左の仮設鉄塔を建てる工事が急ピッチで進められていました。ただ、余震が何度も続くなかでの作業はとても危険だったようで、工事にあたる方々は揺れるたびに互いに手を取り合いながら、その場をしのいでおられたことを通勤の車から見たことがありました。

2016年7月撮影
ジオライドの中でも、誰が見てもそのすさまじさを実感できるのが、阿蘇西小学校前の4m近い断層でした。8m農免道路から入ってすぐの舗装された田んぼ道沿いにあるため、大人数で訪れても周囲の迷惑にならず、自転車を置く場所も確保しやすい場所でした。車で来られた場合も停めやすく、ジオライドでは案内しやすい象徴的な阿蘇の震災跡のひとつでした。

ここが断層のあった場所であることは間違いないのですが、今ではゆるやかな下り坂になっていて、当時の面影はまるでありません。いったいどのように改修したのだろうと、あらためて驚かされます。鉄塔も、当時の基礎のない仮設のものから本設の鉄塔へと建て替えられており位置も変わっていました。

続いて崩壊した阿蘇大橋を国道57号線沿いから見学します。車の多い57号を走ることは滅多にありませんが今回は仕方ありません。

数鹿流崩之碑展望所から見える崩壊し残った橋桁。 阿蘇大橋は、国道57号から分岐して、南阿蘇村の中心部・高森町へ至る国道325号の一部として1970年完成しました。橋長は205m、幅員は8m、真下を流れる黒川の谷底から76mの高さにありました。

写真は震災ミュージアムKIOKUよりお借りしました
4月16日の本震によって国道325号に架かる「阿蘇大橋」が崩落しました。 土砂に埋もれた左の道が国道57号、その上に豊肥本線があり、谷の底を流れるのが黒川、右の道の国道325号で57号を繋いでいたのが阿蘇大橋でした。
当初は,裏山の斜面が崩壊によって発生した膨大な土砂に押し流されたと言う説が有力でしたが,橋の直下の断層が動き、橋脚を支える地盤がずれたことにより崩落したことが震災から4年後わかったそうです。

この後のコースは、数鹿流崩之碑展望所から57号で新しくなった立野駅に行き、震災で4年間豊肥本線が止まったまま誰も来なくなったのに名物の「ニコニコ饅頭」を販売し続けていた駅舎に寄って賞味する予定でしたが、時間調整でそれはカットして新阿蘇大橋を押し歩きで渡りながら震災に耐えた長陽大橋を眺めました。

南阿蘇橋までは当時行くことができましたので、新阿蘇大橋の建設が進んで行く姿をこの橋から眺めていました。思い起こせばかなりのサイクリストに、ここからの阿蘇が復興して行く風景を見てもらっていました。

2017年9月撮影
ジオライドは、赤水から南阿蘇村河陽の断層で被害大きかった集落を通って阿蘇大橋に行くのが定番でした。途中にある当時「学生村」と呼ばれた黒川地区には、アパートや下宿が立ち並び、多い時で約800人の学生が住んでいたそうです。震災後はアパートが倒壊し、東海大生3人が亡くなりました。また、震災直後、車で通りかかった大学生の方が谷に落ちて亡くなりました。
また、ここから山の急斜面の土砂崩れの復旧工事が印象的でした。不安定な土砂の崩落による二次災害を防止するため、崩壊地内での復旧作業は全て無人機でされていました。余震もある中で轟音を立てた土砂崩れが頻発しており、その度に胸が締め付けられるような恐怖が走りました。

阿蘇大橋手前にあるセンターラインのずれ。
この断層跡から今回の地震が右横ずれの断層活動あったことが確認されました。また、これにより布田川・日奈久断層帯が阿蘇外輪山の内部まで達していることが分かったそうです。内牧・175号・阿蘇西小学校前の断層もこの延長線上の断層でした。

2016年10月23日撮影
阿蘇大橋近くにあった崩れ落ちる寸前のセブンイレブン跡は、更地となって当時のことを説明してもなかなか伝わりません。震災後しばらくして行って見ると、何も持ち出さず営業しているそのままの様態でした。2016年4月15日付けの週刊誌が目に止まりました。食料品もそのままだったので大量のハエが飛んでいました。その後行ったときにはハエは床に落ち真っ黒になっていたのを憶えています。

次に向かったのは近くにある「熊本地震震災ミュージアムKIOKU」です。
2023年7月にオープンしたこの施設は、震災遺物の展示や当時を振り返るシアター、巨大地形ジオラマ、各種プログラムを通して、熊本地震の被災の様子やそのメカニズム、そして防災について学ぶことができます。

この施設の先にある震災遺構の旧東海大学阿蘇校舎1号館は、ONE PIECEロビン像があるので何度も訪ねていましたがミュージアムは初めてでした。スタッフのみなさんは、とても親切で気持ちの良い案内をされていました。こちらのサイトには、各展示エリアのガイドスタッフが誘導および補足解説する形式のため、見学所要時間は60~90分とありましたが、確かに1時間以上の滞在時間は必要だと思いました。



57号線側から見た阿蘇大橋。崩壊を知らない大学生はこちらから谷に落ちました。熊本市内の友人宅にいたそうですが、朝から田植えの準備を手伝うため深夜に自宅に帰る途中の事故とのことでした。

避難所で活用された段ボール製のベッドもあり、寝心地を試してみることができます。

旧東海大学阿蘇校舎、右の校舎は耐震補強されていたため被害はほとんどないようでしたが、左の校舎は耐震がされておらず、多くの亀裂があり内の階段は落ちていました。

ロビン像は順番待ちの人気です。私たちの前はスペイン語圏の女性グループでした。ここだけ笑顔になれる空間の存在は、熊本復興プロジェクトの成果だと思います。熊本地震からの復興を支援するために、漫画『ONE PIECE』と熊本県が連携して立ち上げたこのプロジェクトは、麦わらの一味の仲間たちが県内10市町村の被災地の復興を支援するストーリーになっています。確かに10体のONE PIECE像は、訪れる人が多く、特に外国の方の人気スポットになっています。

最後に向かったのは、ラピュタ(ラピュタの道)の麓の長寿ヶ丘公園です。ラピュタは阿蘇谷の狩尾地区から北外輪山の岩山の斜面を縫いながらミルクロードを結ぶ峠道です。道幅は狭く路面は荒れており、一般車両の通行はなく農耕車両が通る道です。景観は長寿ガ丘公苑の先から樹木がないため見晴らしが良く自転車乗りには人気の峠道でした。

2016年7月18日撮影
しかし、熊本地震の前震で大きく崩れて通行することはもちろん、崖崩れの危険性があるため立ち入ることもできなくなりました。阿蘇市道のラピュタは、生活道路でも交通の要所でもなく、膨大な修復費用(新聞報道では100億円)が掛かるため開通の見通しはありません。

麓から森の中を上り1.7㎞上って長寿ガ丘公苑に着きました。ここでやっと開けたラピュタらしい景色が見ることできますが、通行できるのはここまでです。
本来は平均勾配8.2%を5.6km上れば、あの独特の突き出た半島のような景観の先に阿蘇谷、そして阿蘇五岳の景観を楽しむことができました。峠の先のミルクロードに合流すれば最も阿蘇らしいサイクリングコースとなっていました。

2012年10月29日撮影
ラピュタについては、私のブログで何度も紹介しています。その出会いと2015年に公開された「劇場版弱虫ペダル」にラピュタが出た経緯、あと動画もありますので、すべてのサイクリストに愛された道として、特集レポートを道の駅阿蘇のブログで紹介したいと思っています。

熊本地震からの10年はあっという間でした。その間、今まで振りかえることはありませんでした。ジオライドのことも今回のレポートで思い出すことができました。震災はいつ起こるか分からない想像を絶するものあること、そして悲劇と、困難を要した復興、それらが重なったことを、ジオライドでみなさんに伝えたかったと思っていました。
阪神大震災を経験した関西の電力会社、消防、自衛隊。彼らは「何が必要で、どこが弱点で、どんな順番で動くべきか」を身体で知っておられたと思いました。だからこそ、阿蘇のインフラは奇跡的なスピードで復旧しました。これは単なる技術力ではなく、痛みを知る者同士の連帯だったと思います。

交通網が止まった時に自転車だけが動けたこともよく話しました。
道路が寸断され、ガソリンが手に入らず、電源も落ちる。 そんな状況で、唯一自力で確実に動けたのが自転車でした。食料や水の配給へ向かう 、家族や知人の安否確認 、地域の情報収集 、通行止めを避けながらの移動、これらは、車でもバイクでもできなかった自転車だけが、生活をつなぐ生命線になったことです。
その経験を、趣味が自転車である参加者に、ジオライドを通して「自転車は災害時のリアルな移動手段」あること、「緊急時に家族を守れるのが自転車」であること、これを何度も話していたことを思い出しました。
阪神の経験が阿蘇を救いました。阿蘇の経験が未来の誰かを救うためにも、地震当時の記憶を改めて共有し、災害への備えの重要性を再認識してもらうことを目的とした記念事業を秋に道の駅阿蘇が実施します。
地震を実体験した地域住民による語り、私の今回のような振り返り、さらに復旧事業に携わった関係者からの解説、これらを座学とサイクリングや車での現地視察を組み合わせる体験型の防災・復旧学習イベントが開催されます。継承こそが最大の恩返しと思っていますので、みなさんの参加をお待ちしております。
